今ではない、と思っていた。
一冊の本を読む事によって気持ちや決断が左右されるわけではないけれど、
まだ生々しい温度や、あの日の雨や、しぐさや、言葉や。
"記憶" のタグをつけるには、まだ早過ぎると思っていたし、
飾り無く言うならば、まだ夢のなかに留まっていたかった。
行き慣れない古本屋を、数十分ばかり、ふらりふらりさまよっては、
ようやく見つけたこの本を。
とにかく私は大切そうにして持ち帰り、少しの迷いのあと、そのまま自室の本棚へとしまった。
友人から聞いていた。
「初めから別れが定義されたふたりだけれど、必ず希望に転じるんだよ。そういう物語なんだよ。」と。
その言葉は励ましのようで、熱のある口調で、今すぐ本屋に行きなさいよ、と言われている気にさえなってくるものだった。
北海道の夏らしい、とても冷たい風の吹く夜。
ちいさな勇気と、よくわからない意気込みをこころに通わせて、その本を読んでみることにした。
「ハチ公の最後の恋人」 (著: 吉本ばなな)。
気付けば、夜明け前。
ウットリしたり、涙で文字がかすんだり、そうやってみるみる物語のなかを駆け抜ける。
本当だ、今のわたしに必要な言葉たちだ、そう思った。
ある一点に向かって、子供みたいに大人みたいに、進んでいくふたり。
透明で太陽に透かしてみようかと思えば、次の瞬間には、たくましく分厚いものへと変わっていたりする。
彼と彼女にとって、あの日々は、確かな光となったのだ。
それは出来そうで出来ない、とても難しいこと。とても素敵なこと。
私が今、新しく見ているものも、
これほどまでに立派でなくとも、ささやかな光の輪っかでも。
いつの日か、いっぱい笑ってすこしだけ泣いて、くぐれたらいい。
― 「いつまでもは続かない青春ともいうべきものを、
続かせるやり方を研究していた。私たちは。」
「私はハチを忘れないが、忘れるだろう。
悲しいが、すばらしいことだ。そう思う。」 ―
(「ハチ公の最後の恋人」 より)
BGM: Takagi Masakatsu 「Horo」