2011/11/05
陽光に似た、祖父からの手紙
― この手紙に書いてある字を ぜーんぶ1列に並べて、
その長さを 何百倍もした長さよりも もっとたくさん、
紗織の事を愛しているよ。
おじいちゃんより ―
よく、
「おじいちゃん子だった」・「おばあちゃん子だった」という言葉を耳にするが、
私は多分、どちらにも属さない子供だった。
と、最近まで思っていた。
お正月やクリスマス、催事で親戚が集うのが苦手だった。
友人や学校の先生や家族に対しては、それはもう、べらべらとよく喋る普通の女の子だったのだけれど、
おじいちゃん、おばあちゃん、叔父や叔母、遠い親戚。
皆が集まると、まるで”シュウ”としぼんだように、
「元気にしてたか?」―「うん」という単調な会話に精一杯で、今思うと、本当に可愛げのない奴だった。
(それも理解した上で、良くしてもらって居たのだけれど)
まだ小さいながらも「ああ、もっと孫は甘えるべきなんだろうな」とか、
「なんだか、嘘の顔ばかりが集まった、巣みたいだな」とか、
変に達観している部分があった。
でも実際に、父方の親戚同士はあの頃から不仲で、みんなが機械的な笑顔を浮かべているように見えていた。
そんな私が、唯一、少し心を委ねる事が出来たのは、
母方の祖父。
相変わらず長い長い会話は上手じゃなかったけれど、大好きだった。
おじいちゃんは貧しい家庭で育ち、高校へ通えなかったと聞いていたが、
自分で勉強を重ね、とてもとても頭の良い人だった。
とてもとても字が美しく、文章も美しい人だった。
父の転勤の関係で、私が小学生の頃、三年間ほど関東で生活をしていた際、いつも手紙を送ってくれていて、
そこには愛情がきちんと書き表されていた。
当時の私は、それに対し、等分の感謝を感じ取る力が無かったが、
今になって、ようやく、痛いほどに理解をしている。
涙が止まらなくなった時や、
どうしたらよいのか分からなくなってしまった時や、
家族の愛や団欒に疑問を感じた時、
必ず祖父からの手紙を読み返してきた。
この記事の冒頭部分に書いた一文が、
沢山送ってくれた手紙の中で、いちばんに好きな言葉だ。
なんて素敵な表現なのだろう。
こんなに愛を持ってくれていた人に、どうして素直になれなかったのだろう。
何度も読み返しては、それをちょっと後悔し、
ちょっと照れながらも嬉しくなり、
ちょっと泣いてしまったりしている。
そして今日、
祖父が亡くなる少し前に、本を贈ってくれた事を思い出した。
「さおりが大きくなったら、きっと色んな事を知りたくなる日が来るから、
悲しい事ばかりじゃないと、読んで感じなさい」と言ってくれた事を思い出した。
手紙と一緒にクローゼットへ仕舞っておいたその本達を引っ張り出すと、
すごく難しい内容の物ばかりだった。
宇宙のこと、
世界の歴史のこと、
古い文学、
古い日々の写真集(町や暮らしの何気ない光景たち)、
花の図鑑、
力学について書かれている分厚い本、など。
今まで、友人と「もしもタイムマシンが使えたら」と話した時は、
大袈裟に”江戸時代に行ってみる”とか”ずっとずっと未来に”とか、そんなような事を言っていたけれど、
私はやっぱり、もう一度、おじいちゃんに会いたい。
今の私で、会いたい。
話したいこと、伝えたいこと、今なら上手く喋ることが出来ると思うから、言葉を交わしたい。
お酒を一緒に飲んだりもしてみたい。
そして、手紙に並べられた沢山の愛について、「ありがとう」と繰り返し繰り返し、言いたい。
22歳になった私を見て、おじいちゃんは、どう思うだろう。
夜中に泣きじゃくっている姿を見て、心配しているだろうか。
恋をしている姿を見て、制作をしている姿を見て、「ちょっとは大人になった」と微笑んでくれているだろうか。
穏やかな笑顔をもった、あたたかい人だった。
陽光に似ている。
少しずつ、受け継いだ本を読み進めていこうと思った。
そんな夜。
私は、おじいちゃん子だ。
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